english page

寄付のお願い

岡本海外医療援助基金(Okamoto Medical Fund)|岡本医師夫妻の現地診療


Okamoto Medical Center: 岡本メディカルセンター 

ガジプールでの村人の歓迎とノーベル平和賞ムハマド・ユヌス氏との面談
岡本内科こどもクリニック院長 奈良県立医科大学 客員教授 岡本 新悟

バングラデシュから県立医大に奉職中に私の処に留学してきたレザ医師の願いで、彼の故郷であるガジプールという無医村に、私の出資により病院を建設した。彼から当地の訪問を乞われ、病院の視察と診察を兼ねて、現地で患者さんを診察し、さらに私の専門である成長障害の講演を行った。その後医療費が払えない患者さんのためのマンゴー園を視察し村人の温かい歓迎を受けた。

一、ガジプールの村人による歓迎パーティー

歓迎パーティーは一月一日を予定されていた。日本では元旦であるが、イスラムの世界では一月一日と言っても取り立ててお祝いなどはしないようである。そこで日本から来た私達のために特別に歓迎のパーティーを開いてくれるというのである。何人くらい集まるのかとレザ君に聞いてみたところ、百五十人以上だという。そのような歓迎のパーティーは余程の事で、結婚式やラマダンという断食が開けるときに村でお祝いするときだけであるという。当日は儀式に則って、牛を一匹殺して村人全員で食べるとの事である。目の前で殺すのか?と聞いたところ、別の処で殺して肉を持っていると言うのでホットした。車中スピーチの英文を考えながら窓の外を流れるバングラデシュの喧騒たる街並みを眺めていても3日目となると慣れてきて、これも一つの世界かという感じで受け止める様になっていた。そして林の中の細い一本道に入ってしばらくすると、何人かの子供が古びたトタンの塀で囲まれた土壁造りの家の前に集まっており、そこに例の歓迎の横断幕が張られおり、奥には黄色い幕で囲われた確かに二百人は入れる会場が見えた。


ガジプールの村人の歓迎パーティーの会場(レザ君の家)

私達の訪問の為にコーランで祈ってくれている村人達

そこがレザ君の実家なのである。入って左にひとつの土壁の小屋があり、そこから男性数名のお祈りの声が聞こえてきた。それは私達の来訪を歓迎し、健康で幸せであるように祈ってくれているとの事であった。
その部屋はお祈りの部屋で、レザ君の父親も生前、私と家族の健康と幸せを祈ってくれていたという部屋である。レザ君の父親は敬虔なイスラム教徒で、昨年春に慢性呼吸不全で他界されていた。私が来るのを楽しみにしておられたという事で、壁に飾れたその肖像をみて胸に込みあげるものがあった。そのお祈りは三〇分程続き、中から白い礼拝様のキャップをかぶったイスラム教の教師であろう人と長老達が出て来られ、握手して来訪を喜んでくれた。そしてガジプールの議会の議長や位の高い順番に私に挨拶し握手してくれた。お祈りが終わった小屋に、入れ替わりに私達がその部屋に入って休むことになった。

そこでレザ君のお母さんを紹介してくれた。私と同い歳位で六〇歳を過ぎておられたが日本なら八〇歳を過ぎた感じで、何も言わないで手を合わせて喜んで下さった。その姿からレザ君達七人の子供を育てるのにどれだけ大変だったかと想像した。奥に医学書が重ねてあり、レザ君がここで勉強してきたのかとその目で小屋の中を見渡してみた。電気は五年前に引かれただけであるとのことである。レザ君はここで受験勉強を重ねて、全ての学年をトップで卒業し、ノートルダム・カレッジを奨学金で、チッタゴン大学も奨学金で卒業したのである。その姿を想像しながらきっと野口英世もこの様な処で努力したのだろうと、以前訪れた福島県の翁島村の野口記念館を思い出した。そして彼の姉さんがお産の時、出血多量で亡くなった事、近くに病院がなくお金もないため姉を病院に運ぶこともできず亡くしてしまった事から、自分は勉強して医師になり、この地で医師として働こうと決心したとのことであった。
 ふと外を見ると村の女性達は別の庭で地べたにしゃがんで料理を造ってくれていた。奥の方からカレーの芳しい匂いがしてきてカレーを煮ているところに案内された。地面を掘ってカマドにしてその上に大きな釜を置いて男の人が槍の様なスプーンで煮込んでいた。ブロック肉は今朝殺された牛の最も上等で、さすがに毎日カレーでもこのカレーは特別おいしそうであった。私も混ぜるかという事で、長いスプーンを貸してくれて試してみた。手ごたえのある重みを感じた。


歓迎パーティー用のカレーを煮る村人と

ガジプールののどかな田園風景(雨季には洪水の下に沈む)

そして開宴までの一時間程、レザ君の案内で彼が育った村を案内してもらった。彼の家は豊かではないが敬虔なイスラム教徒として村では尊敬されている家柄のようであった。また彼の一声で村人が一五〇人程集まってくれるというのであるから彼自身も村の人々から一目置かれている存在であることが分かった。彼の家の裏に出ると、広大な田園風景が広がって見えた。

それは私達の子供のころの田舎の風景とそっくりで牛で田を耕し、手で一本一本苗を植えている処であった。これほど豊かな田園風景からはあのダッカ周辺のスラムともいえる街と人とリキシャの喧騒は想像できないものであった。彼の話では雨季になるとこの見渡す限りの田畑一面洪水で濁流の下に沈むそうである。その時は木船で行き来することもあるとの事である。治水が国を治めることの最も重要な事業であった時代の対策がバングラデシュではまだ手がつけられておらず、自然の脅威に翻弄されるがままの状態なのである。しかしのどかな田園風景で農道を散歩しながらしばし心の安らぎを覚えた。


村人150人による歓迎パーティー

特製のカレーを盛るレザ君と私達

確かに貧しい村ではあるが、レザ君はこの村でやさしい両親と多くの兄弟と一緒に、そして村人との共同生活のなかで礼儀と信仰心を培い、勉強しがなら初志を貫いて医師に成ったのであった。日本でみる彼の姿とはまた事なったイメージで彼を見るようになった。彼はガジプール村の野口英世なのであった。 しばらくして会場に招きいれられ、最も高い処に私達家族が座っておなじテーブルにはレザ君と長老達であった。

そしてまず私にスピーチをお願いしますと言われ、ここまでの道すがら造った英文を思い出しながらゆっくり話した。その場で英語が分かるい人は数名位で私の英語をレザ君はベンガル語に訳してくれた。私がこの土地にOkamoto Medical Center を建設した意図をはっきり伝えたかった。そのためレザ君が日本で Fellowship を得てからサウジアラビアからの高額の給与での招聘を断ってこの村で患者さんを助けたいと言って私に相談に来た事。その心は彼の無くなったお父さんの遺言でもあったこと。そして彼は医療費を払えない患者さんにも治療ができるようにとの事で私と相談の上、Okamoto Mango Garden を造ったこと。さらにこのOkamoto Medical Center はこの村と日本との友情の印ですと、そして最後に「レザ君の夢は同時に私の夢でもあります。」と締めくくった。その英文の原稿は手元にあるが、きっとレザ君が上手にベンガル語に訳して感情を込めて伝えてくれた様で、一同私の方を見ながら大きな拍手で感謝の意を表してくれた。家内も突然の指名でスピーチを頼まれたが流暢な英語で拍手を浴びていた。会場には女性の姿はなく、奥の庭で男性の食事が終わるのを待っているのであった。いかに女性の地位が低いかという事に驚かされた。そこでも私はイスラムの白いキャップに礼服を着て食事をした。手でカレーを食べているときにはもうバングラデシュの人であった。食事の間村の人々から色んな質問を受けた。印象深かったのは、「なぜ日本は戦争に負けて、あれ程ひどい状態から短期間に世界のトップの経済大国になったのか」とう質問であった。バングラデシュの人々の能力は決して劣ってはいないが、日本の復興のアイディアを自国発展の参考にしたいという思いが伝わってきた。二時間ほどの歓談の後、後ろ端の方から一人ひとり席を立って帰って行くようになり、しばらくして女性がそこに座って食事を始めた。私達は礼拝の小屋で少し休んで、帰る準備をした。私はもし機会があれば村人に帰る時にフルートの演奏をと考えて持ってきていた。そこで部屋の中で調音していると、入口に女性達が集まってきて珍しそうに私がフルートを吹くのを覗き込んできた。これは演奏してもいいなと思って、「埴生の宿」を吹いた。女性達から大喝采であった。


ガジプールの村人と別れを惜しむ(ガジプールのみなさん有難う!)

お礼に村の女性達に「埴生の宿」のフルート演奏を送る

そろそろ時間で車に急いで乗り込んだ。窓の外は村人の顔で埋め尽くされていた。私達も別れを惜しんで一路ダッカへと向かった。帰り道おおきな車の事故を2件みた。車と車が接触しながら走っている様な渋滞であるから当然と言えば当然である。この国のもう一つの大きな問題であろう。その夜はレザ君の友人のアパートで夕食を摂ることになった。彼の友人はエレクトロニック・エンジニアやコンピューターのエンジニアで私の講演のために準備してくれていた錚々たるメンバーであった。私が外国人であるためアルコールはOKということでウイスキーを御馳走してくれた。久しぶりのアルコールは一気に私を別世界に誘ってくれて、歌やフルート演奏で盛り上がった。明日はノーベル平和賞受賞者の ムハマド・ユヌス氏との面会があるため早々に引き揚げ明日に控えてやすむことにした。

二、ノーベル平和賞ムハマド・ユヌス氏との面談

2006年のノーベル平和賞がバングラデシュのムハマド・ユヌス氏であったことはレザ君から聞くまでは知らなかった。丁度レザ君が日本に来て二年後の受賞であったため、彼にとってもユヌス氏は誇らしい存在であった。その頃書店の店頭には「ムハマド・ユヌス自伝」(早川書房)が置かれており早速読んでみた。彼は当時チッタゴン大学の学長で、アメリカで経済学を学んだ経済学教授である。彼が始めた「グラミン・バンク(村の銀行という意味)」により多くの貧しい人々を救ったという功績でノーベル平和賞を受賞したのである。そのグラミン・バンクとは、今までお金を手に取ることも無かった貧しい女性や村人に自立できるためのわずかのお金を無利子で貸すこと(マイクロ・クレジット)から始め、そのアイディアは世界の発展途上国にも広がり、現在ではグラミン・バンクはバングラデシュの大きな銀行となったのである。本来の担保を取ってお金のある人しか相手にしなかった銀行のシステムに疑問を投げかけ、貧しい人にこそお金を貸して自立を促す助けをしなければいけないという彼の根本的な発想に基づいている。彼は実行家であって、決してお金持ちではない。彼が自分のポケットマネーから始めてマイクロ・クレジット構想を立ちあげ、彼のグラミンバンクも自立発展しているのである。彼の生い立ちから青春時代のアメリカでの体験、そしてパキスタンからバングラデシュが独立するまでの彼の活動には一貫するものがあり頭が下がる思いであった。一言でいえば「彼は決して自分の為に行動していない」という点である。その本を読む中で、最初の自立の小額の基金が非常に貴重であるという事を学んだ。東京見物の途上レザ君から病院の建設費の援助を持ちかけられた時、このマイクロ・クレジットの論理が私の脳裏を巡った。決してマイクロという金額ではないが、それを元手に病院を建設し、何年かのうちに基金に借りたお金を変換するという話である。そして基金に戻った資金でさらに同じ病院を近隣に造っていくという構想で、それは大きなプロジェクトであった。また夢のある構想でまさに「レザ医師の夢は、私の夢」でもあった。ただグラミン・バンクと異なる点は、Okamoto Medical Fund にはマンゴー園を持っており、お金の払えない患者も医療が受けられるという私のアイディアが入っている。
以上の事からも私がバングラデシュを訪れるときには是非ユヌス氏と面会し、私の構想を紹介し話し合いたいと考えていた。


2006年ノーベル平和賞を受賞するモハマド・ユヌス教授

ノーベル平和賞を受賞して壇上で挨拶するユヌス教授

しかし世界のユヌス氏である、面会は余程の名の通った人しかできないと聞いた。彼の自伝にはアメリカの元大統領ジミー・カーター氏やヒラリー・クリントン氏との写真が載っている。私の様な一介の医師が面会を依頼してもまず無理であろうとあきらめの気持ちもあったが、レザ君に何とか取り成してくれないかと頼んだ。バングラデシュに行く一カ月前である。彼からなかなか返事が無かったが、出発の前に一月二日、午後に十五分程時間を取ってくれるアポイントが得られたとメールが入った。後で聞いた話だが、アポイントと取るのに彼の母校の教授や有力者に連絡を取ってやっとOKがでたとの事であった。私はそのメールを見て一瞬頭の中がボーとなった。あのプロフェッサー・ユヌス氏に面会ができるのである。握手して帰るだけでも光栄であると思った。その面会の日が今日なのである。私も家内も朝から緊張のあまりそわそわしていた。そしてレザ君からの電話をホテルで待った。家内と娘は和服に着換え、私は特別に持ってきた紺のスーツとネクタイをつけ、靴も新調したのに履き替えて待っていた。そしてユヌス氏の秘書からレザ君に二時半に面会できるとうい電話が入って一時にダッカのユヌ・センター(ユヌス氏がノーベル賞を受賞したのを記念して建てられたセンターで、グラミン・バンクのhead office も兼ねている)で待つことにした。ユヌス・センターは八階建ての立派なモダンな建物で、この国の人が如何にユヌス氏を尊敬しているかが分かった。玄関からの入り口も厳重なチェックを受けたが、ユヌス氏と面会することになっていると知れると非常に丁重に扱ってくれた。そして時間までユヌス・センターの一階にある、ノーベル平和賞受賞記念コーナーの写真の展示を見ることにした。彼の今までの功績とノーベル賞を受賞した時の写真が多数飾ってあった。中央には受賞式の式場のコピーがあり、その周りの写真から、ノーベル賞の授賞式が如何に厳かなものであるかが分かった。彼がノーベル賞のメダルと証書を手にして満面の笑みを浮かべ、会場からの喝采の中にある彼の気持ちはどんなものであったかと想像した。

家内が「あなたもノーベル賞もらってよ」との冗談に「アホか」としか言い返せなかった。そして一階のロビーに椅子にレザ君夫妻と私ども三名が座って待つことにした。そして秘書さんから電話が入り、4階までエレベータで上がってユヌス氏の部屋の扉を秘書さんが開けて「どうぞ」と招き入れてくれた。そこにはあのユヌス氏がにこやかに立っておられた。トレードマークの白いベストにしま模様のタートルネックのカッターを着流して白いズボン姿であった。イメージ通りであった事と、あのにこやかな誰にも愛される笑みは人を安心させてくれるものであった。早速私は名刺を渡しながら簡単に自己紹介し、家内と娘も紹介した。


ユヌス・センターを訪問してモハマド・ユヌス氏に面会 (2011/1/2)

Okamoto Medical Fund 構想に興味を示すユヌス教授

すると私の名刺を見ながらどうぞあっちのテーブルで話しましょうということで、全員丸テーブルを囲んで座った。そしてまず私は、奈良県立医科大学の学長の吉岡 章先生からの親書を手渡した。ユヌス氏はじっと内容を読んで、「返事を送ります」と言われた。私はレザ君が私の処に留学してきた経緯から、自分生まれ育った村が無医村で、そこに病院を建てて貧しい人も診てあげられるようにしたいと言って私に相談に来たことと、現在の Okamoto Medical Centerの状態やMango Garden の話も付け加えた。ユヌス氏はその構想に非常に興味を持たれたのか、バングラデシュの医療の問題を色々話してくれた。

あっという間に予定の十五分が過ぎたが、そんなことはお構いなしに御自分のグラミン・バンク構想と医療のリンクについて話してくれた。現在バングラデシュでは優秀な医師はほとんどが母国に残らず、中東の産油国の病院に勤務して高額の給料を得てそれを母国に仕送りするのであるという。そしてナースも海外に出稼ぎに出て、バングラデシュではナースも足りないのであるという事である。医師や看護師になることは海外に出稼ぎに行って自分の家に仕送りする方便ともなっているのである。それをどうにかしなければとユヌスしは言っていたが、良いアイディアは無いらしい。発展途上国からの観点を知らされて、われわれ日本ではフィリピンからナースや介護師希望者を招いて養成するという考えがあるが、経済大国日本のエゴを知らされた感じであった。発展途上国でも医師や看護師、介護師は不足しているのである。家内は小児科医としての意見を話し、また男女共同参画でも医師会で仕事をしている事を話すと、ユヌスしは非常に興味を持って聞いてくれた。


家内(小児科医)の男女共同参画の話に興味を示すユヌス教授

発展途上国の医療事情についてユヌス教授と討論する私と家内

彼は「虐げられ貧困にあえぐ女性をどうするか」という観点からグラミン・バンクを始めたことからも、家内の女性からの意見は非常に興味があるらしく頷きながら聞いてくれた。

そしてユヌスからは私に keep in touch with you と言って握手を求められ、今後も色々情報を交換することで会談は終わった。


面会を終えての記念撮影

Keep in touch with you との言葉に感激して握手

結局一時間余りもの素晴らしい会談であった。そして記念撮影をしてくれるという事で専属のカメラマンが私達とユヌス氏とを撮ってくれた。そしてユヌス氏はドアの近くまで送ってくれて挨拶をして別れた。何か夢の中の出来事の様で、ホテルまでの車の中では呆然としていた。レザ君もユヌス氏がここまで我々のOkamoto Medical Fund の構想に感心を持ってもらえるとは思いもよらなかった様であった。そしてその日の夜ダッカ空港を飛び立て日本についたのは三日の昼過ぎであった。このバングラデシュでの五日間は私の人生で最も貴重な経験が詰まった五日間であった。そして帰りの飛行機の中でふと頭に浮ん歌が短歌としては選外であるが、その時の心を思い出させてくれるものであった。

 輝ける 出逢いを重ねし 初春は
             世界に翔たく 初めなるかな
                       (完)

御寄付のお願い

お金の払えない患者さんの為のマンゴー園のマンゴーの苗を買っていただけますか。1本一万円で、寄付して頂いた方のマンゴの樹としてネームプレートを付けて、毎年その樹の発育の写真とレザ君からの感謝のカードが新年に送られてきます。
振り込み先
南都銀行桜井支店(店番240)
口座番号:普通2093489
「マンゴー基金バングラデシュ」
代表 岡本新悟(オカモトシンゴ)

振り込み手数料は基金持ちです
御寄附を頂きましたら、お名前と感謝状の送付先をはがきでご連絡ください。
宛 先
〒633-0064 桜井市戒重206番地
岡本内科こどもクリニック内
「マンゴー基金バングラデシュ」
岡本新悟

マンゴーの苗(植樹後3年からマンゴーが収穫できる) マンゴーの植樹を手伝うレザ医師(右)と職員

 

 

岡本海外医療援助基金

お問合せ先:岡本内科こどもクリニック 

 TEL 0744-42-4152

寄付のお願い

Copyright (C) Okamoto Medical Fund; All Rights Reserved.